2021-02-04
テーマ:番外編【特攻隊】
今回は、がん老介護から離れます。
特攻財団から執筆依頼を受け、思い切って告白しました。
祖父が連合艦隊司令長官として特攻作戦に関わっていたこと。
靖國神社の花嫁人形の前でおきた不思議なこと。
「昭和の参謀」と呼ばれた瀬島龍三さんの前でおいおい泣いたこと。
数日間で、この記事への反響が多方面から寄せられ、とても驚いています。
特攻隊を知らない皆さまにも、ぜひお読みいただけますと有難く存じます。
『告白 大穂 その井』
この原稿を書くにあたり、自分の中で強い葛藤があった。
それは、自分自身が「特攻」と向き合う勇気をいまだに持てていないということの表れだった。
おとなになっても、まだ気持ちはあの場所にある。
そしてそれには祖父が大きく関与している。
私は幼少の頃から、祖母や両親に連れられて特攻隊戦没者のご慰霊に上がり、たくさんの方々にお目にかかった。
そして数年前、80代になった母の代わりにこの財団の理事となった。
そんな私が、実は特攻と向き合えないままでいることを公表するのは果たして良いのか、逡巡しつつもここに初めて告白する。
あの日のできごとは鮮明に覚えている。
まだ小さかった私が、父に手を引かれて靖國神社に参拝に上がった時、宮司さんが「よくいらしたね」と申され、その場所にとおされた。
入った瞬間、光に目がくらんだことを今でもよく覚えている。
部屋の中には花嫁人形がたくさん飾られていた。
日本髪を結い上げた美しい人形たちは、豪華な花嫁衣裳や純白の白無垢を着て、ずらりと、静かに並んでいた。
父が「これは死んでしまった若い兵隊さんたちのお嫁さんだよ」と言い、
私はその意味がわからないまま、黙って人形を見て回った。
いつも遊んでいるビニールでできたリカちゃん人形とはあきらかに違うが、
また、床の間に飾ってあるたおやかな博多人形とも違う。
まるで「人」みたい、「生きているみたい」そう思った。
それから数年後、靖國に上がった時に、
私から「あのきれいな花嫁人形を見たい」と申し出て、部屋にとおしていただいた。
美しい花嫁たちが変わらずそこに立っているのを見て、私は嬉しくなり「また来ました」と挨拶をした。
父が「こちらにおいで」と言い、
壁に飾られた特攻隊員の写真を指差した。
「あの兵隊さんたちはお嫁さんをもらわないで死んでしまったから、兵隊さんのお母さんがお人形さんを天国に送ったんだよ」と言い
「兵隊さんの写真をよく見てごらん」と私を促した。
まだ少年の顔をした兵隊さんたちは、花嫁人形と向き合うように壁に並んでいた。
すると、視界が急に乱れて、目の前にこんな映像が見えた。
短髪の青年の横に、髪をゆるくカールした綺麗な女性が寄り添っていてふたりとも私を見て笑っていた。
目線が同じ位置だったので、子どもだった私の目線まで下りて現れてくれたのだと思う。
驚いて父にそれを告げると
「そうか。それは良かった」と笑ってくれた。
花嫁人形には「明子さん」などとそれぞれに名前が付けられていて、
「〇雄へ 母より」と書いた短冊が添えられていた。
中でも一番大きなガラスケースに入った美貌の花嫁人形には、
「弟へ メイ牛山」と書かれた大きな札が付いていた。
こども心に
「なんで牛なのにメイ?ヤギなんだろう」と不思議に思った。
十年後、ハリウッド化粧品の創業者であるメイ牛山さんにお目にかかった時、このことをお伝えしたら
「そう!見てくれたのね!」と私の手を握り
「私はね、弟の分まで生きているのよ。だからほら見て、元気でしょう?」と申された。
私は話すことを迷ったが、でも思い切って、あの靖國の部屋で目の前に現れた若夫婦のことをメイさんにお伝えした。
するとはらはらとお泣きになって
「お嬢ちゃん、ありがとう」と申され、私をそっと抱きしめて下さった。
成長して、私の祖父が最後の連合艦隊司令長官だったことを知った。
祖父は私が3歳の時に亡くなったが、そのあとも自宅には陸軍海軍を問わず、たくさんの方が訪問くださり、祖母や両親と交流していた。
祖父は尊敬する立派な軍人さん、そう思っていた。
そのうち、祖父が特攻隊に出撃命令を出していたことを知った。
終戦前の激戦の時、たくさんの特攻隊員が亡くなられた時に、だ。
私はあの花嫁人形たちを想った。
娘である母は、40年近く中学校の教員をしていたが、自分の父のことは語らず、黙っていた。
祖父の葬儀の日に、事実を知った母の教員仲間が「仰天した」とあとで話してくれた。
私がおとなになるにつれ、母は「ご遺族のお気持ちを考えて、戦争に関する発言は控えなさい」と何度も言った。
私は、母に言い含められたこともあり、
祖父のことも連合艦隊のことも、戦争のことにも触れないように気を付けながら生きていた。
30代で私がベンチャー会社を起業し、考案した技術がニュース報道されると、
連合艦隊で祖父の参謀をして下さっていた瀬島龍三さんが
「私が君のビジネスの後見人、参謀になるよ」とおっしゃり、取締役になり株主にもなって下さった。(※3)
瀬島さんは「小澤長官のことについて君は知らなさ過ぎるな。もっと勉強をしなさい」と申され、
私はそれから瀬島さんに祖父の話を少しずつ聞くことになる。
ある日、瀬島事務所に上がると
「私が会長をしている特攻協会で出した本だよ」と瀬島さんから「特攻隊遺詠集」を手渡された。(※4)
ページをめくり、初めに目にした辞世の歌は
『 十億万人に十億の母はあれど 我が母に勝(まさ)る母あらめやも 』 だった。
それは19歳の少年が詠み、昭和20年6月25日に散華されていた。
祖父が出撃に関わっていた日付だ。
私は瀬島さんの前でおんおん泣き「涙を拭きなさい」とハンカチを渡された。
本には、家族を想う20歳の隊員の歌
『泣くな、嘆くな、必ず還る 桐の小箱に錦つけ会いに来てくれ九段坂』
24才の息子を亡くしたお母さまの歌
『 散る花のいさぎよきをばめでつつも 母のこころはかなしかりけり 』
も載っていた。
あの花嫁人形たちにこめられた想いがそこにあった。
私はこの寄稿をするにあたり、あの花嫁人形たちが今どうしているのかを靖國神社に尋ねた。
遊就館に飾ってある数体を除いて、すべて倉庫に保管しているとの答えに、息が詰まりそうになっている。
「遺族がお参りに来る時に見せていたけれど、もうその機会が減った」のが理由であったが、
暗い部屋にひっそりとたたずむ花嫁たちを想うと心が苦しい。
できれば、昔のように明るいあの場所で、たくさんの方々にその姿を見せて欲しい。
あの花嫁人形を見れば、たとえ子どもであろうとも強く記憶に残る。
それが特攻隊に想いをはせ、ご供養になると思うのだがいかがだろうか。
今を生きている私にできることは何か。
特攻で亡くなられた方々や、あの花嫁人形にこめられたご家族の想いに寄り添い、哀しい心をお慰めするにはどうしたらよいのか。
いくら考えても答えは出ず、私はまだ泣くことしかできないままでいる。
(※1)花嫁人形の画像は、2012年2月号「WiLL」に故三宅久之氏が「英霊の花嫁」と題し寄稿されていたのでそこからお借りした。発行:ワック(株)
(※2)山下奉文陸軍大将を訪問した祖父。当時は南遣艦隊司令長官だった。シンガポールにて。昭和17年2月27日。
(※3) 瀬島龍三氏
陸軍中佐、陸士44期、連合艦隊参謀。戦後は伊藤忠商事会長、NTT相談役、中曽根政権顧問などの要職を歴任され「昭和の参謀」と称された。平成4年 当財団の会長に就任。平成19年9月ご逝去。
(※4)「特攻隊遺詠集」(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編 1999年PHP研究所
(※5) 「果断、寡黙にして情あり-最後の連合艦隊司令長官小澤治三郎の生涯」宮野澄著 1994年祥伝社
※ 掲載した遺詠
『十億万人に十億の母はあれど 我が母勝(まさ)る母あらめやも』
海軍2飛曹 高口一雄命 享年19歳 昭和20年6月25日歿
海軍乙種特別飛行予科練習生4期(乙特飛4期)琴平水心隊
零式観測機に搭乗 指宿基地発進 沖縄周辺艦船にて戦死 富山県出身
『泣くな、嘆くな、必ず還る 桐の小箱に錦つけ会いに来てくれ九段坂』
陸軍伍長 庄地畑道義命 享年21歳 昭和20年1月9日歿
陸軍特別幹部候補生1期(特幹1期)第12戦隊 海上特攻
フィリピン島リンガエン湾にて戦死 徳島県出身
『 散る花のいさぎよきをばめでつつも 母のこころはかなしかりけり 』
海軍中尉 緒方襄命のご母堂様
享年24歳 昭和20年3月21日歿
関西大学予備学生13期 第1神雷桜花隊 桜花に搭乗 鹿屋基地発進 鹿屋160度360浬の敵機動部隊に突撃し戦死 熊本県出身
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